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1946年7月5日、現在のファッション界に多大な影響を与えているある人物が誕生した。
 
 
我が国日本でも多大な人気を誇る「ポール・スミス」だ。
 
 
ポールスミスはイギリスのノッティンガムに生まれた。
 
 
彼は少年の頃から独立心が強かった。ファッション界に大きな影響を与えている彼のことだから、少年時代からこの独立心をファッション界に注いでいたのだろうか?
 
 
実はそうではない。彼は自転車競技で身を立てようとしていた。
 
 
15歳の時に学校を自ら辞め、自転車のレーサーを目指し、日夜努力していた。
 
 
ファッションのフの時も出てこない生活を送っていたのだ。
 
 
そんな彼が、どうしてファッション界に関係するようになったのだろうか?
 
 
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ポールスミスの歴史1へ
 
自転車のレーサーを目指していたポールスミスだが、何故彼はファッション界へ進出するようになったのだろうか。
 
 
彼は不幸なことに事故に遭遇してしまったのだ。
 
 
それも、自転車のレーサーへの道が閉ざされる程の重症を負ってしまった。
 
 
事故が彼からレーサーへの道を奪ったのだ。
 
 
しかし、この事故が無かったら今なおファッション界に風を送り続けている、現在のポールスミスは生まれなかっただろう。
 
 
この事故が無かったら、彼の名は今程広まっていなかったかもしれない。
 
 
失意のどん底に浸っていた彼だが、彼をファッション界へと導いたきっかけはなんだったのだろう?
 
 
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事故によりレーサーへの道を閉ざされたポールスミス。
 
 
彼は退院後、失意のどん底に身を置き、パブに浸る毎日を送っていた。
 
 
事故でレーサーを失い、後々ファッションの道に入るようになった彼だが、このパブで過ごす日々も、ファッション界へ転換するきっかけを与えた。
 
 
パブにはポールスミスの他にアートスクールの学生が通っていた。彼らと接する内にポールスミスはアートの世界へ興味を示すようになったのだ。
 
 
アートスクールの学生からの様々な仲介役の仕事を果たす日々が続いた。やがて彼はこの仲介役の仕事を自分の仕事にしようと思い始めた。
 
 
この時彼は17歳だったが、これがポールスミスの人生の転換期ともいえるかもしてない。
 
 
この後彼はどのようにして現在の「ポールスミス」まで成長したのだろうか?
 
 
ポールスミスの歴史4へと続く
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アートの世界に魅力を示し、その世界の道へ進もうとしたポールスミス。
 
 
もちろん初めから現在のような華々しい立場だったわけではない。
 
 
アートの世界に進出しようと決心した彼はまず、様々な仕事に手を伸ばした。様々な仲介から仕上がりまでの手配まで、とにかく積極的にこなしていった。
 
 
そんな日々を送っていたポールスミスだが、ある日一人の女性と出逢った。
 
 
ポーリーン・デニア。彼女はロイヤルカレッジでテキスタイルの教師をしていた。
 
 
そんな彼女と触れ合う内に二人はお互いの生活心情に惹かれるようになり、ポールスミスは彼女と同居を始めた。
 
 
しかし、この同居によりポールスミスの苦労は増えてしまったのだった・・。
 
 
ポールスミスの歴史5へ
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ポーリーン・デニアと同居生活を始めたポールスミス。
 
 
しかし、実は彼女には既に別の同居人が居た。
 
 
二人の子供と二匹の犬だ。
 
 
一人身からいきなり3人と2匹を養わなくてはならない身になったのだ。
 
 
勿論今までよりも収入が無いと困る。彼は熱心に働いた。
 
 
さらに収入を増やしたいと思った彼は、働いていた店の主人に自分の店を持ち続けたいと熱心に訴えていた。
 
 
その熱心さが功を奏したのだろう。店の主人が、バックルームを自由に使う許可を与えてくれた。
 
 
ポールスミスはすぐさまショップ作りに取りかかった。彼はショップ作りのために様々な事を行った。窓が無ければ壁を壊して窓を取りつけ、壁を塗り替え、電気をひいた。
 
 
一応、これがポールスミス初のショップといえるだろう。
 
 
これはどのようなショップだったのだろうか?
 
 
ポールスミスの歴史6へ
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働いていた店のバックルームを使い、初めて自分の店を作ったポールスミスだが、このときポールスミスが作った物は殆ど無かった。
 
 
殆どが彼が仕入れてきたもので、このショップ独自のものは同居していたポーリーン・デニアが縫ってくれた数本のネクタイ位だった。
 
 
彼はこの時デザイナーというよりバイヤーの仕事をしていたのだ。このことは後々の彼に影響を与えている。
 
 
この当時のノッティンガムではメンズファッションショップと呼べるような店はなかったので、彼はこの店をノッティンガム初の素晴らしいメンズショップに仕上げようとしていた。相当努力したのだろう。
 
 
1970年、24歳の時ノッティンガムに「ポール・スミス・ショップ」をオープンした。
 
 
この時から4年間デザインワークとビジネスを、実際の仕事の中で吸収していった。
 
 
そして、この頃から彼のデザイナーとしての生涯が始まる。
 
 
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ショップ「ポール・スミス・ショップ」を開き、デザイン等の勉強を仕事の中で身に付けていったポールスミス。
 
 
この辺りから彼は自らデザインも手がけるようになった。
 
 
この時がブランド「ポール・スミス」の出発点ともいえるかもしれない。
 
 
彼のデザインの、伝統的なスタイルと、流行の先端であるストリートの感覚をうまく融合させたメンズファッションが話題となる。また、彼の仕事ぶりも、ロンドンのファッション界で注目される程になっていた。
 
 
そんな中、ブラウンズ社が彼に注目し、オファーをかけた。彼はブラウンズ社の専属コーディネーター兼デザイナーとなった。
 
 
ポールスミスはここでショップ経営を続けながら、ブラウンズ社のブランドデザインなどを手掛け、同社の発展に大きく貢献した。勿論彼の評判がさらに増したことは言うまでもない。
 
 
評判が高くなるにつれ、彼のショップの売り上げも高くなり、月曜から金曜までフル稼働しなければならない程になっていた。
 
 
そこで彼は新たな行動を起こし始める。
 
 
ポールスミスの歴史8へ
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ポールスミスの歴史7へ
 
ポールスミスの評判が高くなるにつれ、現在のショップでは対応しきれなくなってきていた。
 
 
そこで、彼はノッティンガムでもう少し大きなスペースを探し、そこにショップを移すことにした。
 
 
ちょうどこの頃に、彼は自分のブランドを持つことを決め始めていた。
 
 
自分のブランド作りで、彼はまず自分のブランドロゴを入れたシャツの作成を工場に依頼。できあがったシャツを自ら売りまわった。
 
 
この「初のポールスミスブランド」ともいえるシャツを初めて購入した、記念すべき人物はニューヨーク有名ショップ「バーニーズ」のオーナーの息子だった。
 
 
彼はポールスミスの元へ押しかけ、なんと200枚の購入を約束してくれたのだった。
 
 
続きは次回のポールスミスの歴史9へ
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1977年、この年はポールスミスの現在まで影響を与えているある事が起きた。
 
 
ポールスミスブランドのシャツを作っていたアールニューボールド工場が不景気のせいで潰れそうになったのだ。
 
 
ポールスミスは100年以上の伝統を持つこの工場が潰れてしまうのはもったいないと思い、この工場を買い取った。
 
 
このアール・ニューボールドは現在も活動している。「本物のウエアを作り出す」というコンセプトを掲げ、この工場は再スタートをきった。
 
 
無駄を省いたデザインの服は、現在もこの工場を中心に生産されている。
 
 
この後、ついに彼は自らのコレクションを初めてパリに発表する。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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1977年、この年は記念すべきポールスミスが初めて自分のコレクションのショーを開いた年でもある。
 
 
ショーといっても、当時の彼は資金の余裕が無かった。豪華とはお世辞にもいえない内容だった。
 
 
デザイナーのキース・バーティとアラン・クリーバーが所有していたパリのアパートの一室を借り、そこがショーの会場となった。
 
 
モデルは友人やポーリーン達が引き受けた。
 
 
椅子は近所から借りてきた。
 
 
ドリンクはスーパーのシャンパン。グラスも借り物だった。
 
 
自宅からはステレオを持参してきて、それで音楽を流した。
 
 
現在のポールスミスとは比べ物にならない程安上がりなショーだった。
 
 
しかしチープさを微塵も感じないほど、ショーは好感触を掴むことができた。さらに翌年からは毎年パリで展示会を開ける程成長していった。だんだんと現在のポールスミスに近づいていったのだ。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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初めてコレクションを開いた1977年の翌年、ポールスミスはパリのホテルの一室を一週間借りて展示会を開催した。
 
 
展示会の設営、招待状を送ったりとポールスミス自身積極的に働いたが、結果は残念ながら一週間で2人しか訪れなかった。
 
 
残念な結果だったが、ポールスミス自身はこの時が本当の意味でのポール・スミスコレクションの誕生だったと述べている。
 
 
しかし、何度も開催していくうちに、訪れてくれる人も増えていった。
 
 
そして展示会の後は多忙を極めるほどにまで成長していった。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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1979年、33歳になったポールスミスはついにロンドン進出を果たした。ショップを開いた場所はコベントガーデン。ここは、元々は野菜市場だったが、市場全体が移動し、廃墟になりかけていた。
 
 
ここに目を付けたポールスミスは、コベントガーデン初のファッションショップを開いた。
 
 
しかし、苦労が無かったわけではない。
 
 
購入しようとした場所を手に入れるには3万5千ポンドが必要だった。
 
 
ポールスミスは当時も資金力がが無かったため、借金をしてそこを手に入れようとしたが、それでも半額以下しか集まらなかった。
 
 
そこで彼は土地のオーナーに、どうしてもこの土地でショップを開きたいということを熱心に伝えた。
 
 
オーナーもその熱意に負け、土地を値下げしてくれ、こうして現在4店舗まで拡大したコベントガーデンショップがロンドンに誕生したのである。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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ロンドン進出を果たしたポールスミスだが、ショップの人気はロンドンだけに留まらなかった。本格的にポールスミスの世界進出が始まったのだ。
 
 
1982年にはロンドンのアベリロウに、そして1984年には我が国日本の東京青山に、1987年にはニューヨークにショップがオープン。1989年にはイギリスの名門デパート「ハロッズ」に単独ショップを置いた。
 
 
現在のポールスミスの基礎が完成したわけだ。
 
 
されに1990年にはターゲットを従来よりも年齢層を高くした「ポール・スミス コレクション」がスタートした。
 
 
イタリアを中心にした素材と縫製で「フレンチ・アンピレ」様式と呼ばれる上質なクラシカルスタイルを追求した。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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もう既に現在のポールスミスの基礎は出来上がった。
 
 
この後はポールスミスが多大な評価を与えられることとなる。この後は殆ど順調にことが進んでいる。
 
 
1991年には英国産業デザイナー賞を受賞。
 
 
1993年には「ポール・スミス・ジーンズ」というジーンズブランドを発表。
 
 
続く1994年には「アール・ニューボールド」という工場名からとったカジュアルラインを発表。
 
 
1994年からはメンズファッションだけでなく、レディースファッションもポールスミスブランドの仲間入りを果たした。(ポール・スミスウィメン)
 
 
この同年にはエリザベス女王よりCBE勲章を授かった。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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ポールスミスの活躍は続く。
 
 
1995年にはロンドンで展覧会「Paul Smith True Brit」を開催。この展覧会は後々東京、神戸、福岡でも開催されている。
 
 
1997年にはローバー社のミニのデザインを手掛け、人気を博した。
 
 
同年、労働党の権下の文化・メディア・スポーツ・創造産業に関する特別専門委員会へ招かれた。
 
 
1998年、「GQマン・オブ・イアー」を受賞。
 
 
2000年にはついに香水界にまで進出。(ポール・スミス・パルファン)
 
 
2001年にはエリザベス女王よりナイト爵位(SIR)を授けられている。
 
 
彼の活躍は止まらない。
 
 
[ポールスミス] 続きは次回の記事にて。
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ポールスミス。彼の活躍は止まらない。
 
 
2006年3月には、日本初のメンズ・レディス複合ショップをオープンした(Paul Smith SPACE)。
 
 
Paul Smith SPACEは4フロア構成になっており、地下1階にはポールスミス自身が集めた書籍や小物がディスプレイされており、1階にはバッグはシューズ、に会はオリジナルラインやメンズウエア、3階には世界のアーティストのためのフリースペースとなっている。
 
 
現在も尚ファッション界の巨匠の一人として業界をリードし続けている。これからの活躍も大いに期待したい。
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